島原という名の由来は、遊廓が島原城に似ているからとか、移転した時の混乱ぶりが島原の乱のようだったからとかいわれている。縦横約二町(二二〇メートル)四方の周囲に溝か掘られ、初の本格的遊廓だった。設立以来、元禄年間までは公認遊廓として繁栄し、特に江戸中期は、数多くの文人や俳人の社交の場となり島原俳壇が形成されるほど文化的にも栄えた。彼らの話し相手になり、俳句も詠み、文学などあらゆる教養を身につけた立派な太夫がたくさん出たのもこの頃であった。
[参考サイトのご紹介]
ところがその後さびれ、江戸後期の小説家滝沢馬琴は享和二年(一八〇二年)京都を訪ねた際島原について、祇園に比べ廓は大変おとろえ、土塀も崩れている、人々が(賑やかな八坂神社周辺から)離れた島原までわざわざ行かなくなってしまったためである、と書いている。その後、嘉永七年(一八五四年)の夏の大火によって決定的な打撃を受けた。明治維新後、毎年四月に太夫道中などの伝統的な風習を復活させたものの、当時はすでに京都の遊興の場は祇園に移っていた。ちなみに、傾城が登場する歌舞伎狂言を島原狂言と呼ぶのは、島原の遊女たちが演じたことから出た名で、十七世紀中ごろ正保・慶安年間に京都で非常に流行ったものである。